戦争は、あどけなさの残る中学生を産業戦士に変えました。当時の中学4年生は現在の高校1年生にあたります。

70年前の昭和19年11月30日、当時の(旧制)横浜二中4年生は長津田駅前に集合し、クラスごとに3台の部隊差し回しのトラックの荷台に乗り込み、一路田奈部隊を目指しました。トラックは川沿いの軍用道路を北上し、橋を渡った神社の突き当たりを左折、左の川と右の斜面に挟まれた、見通しの悪い狭隘な緩い右カーブに差し掛かったところ、対向から佐官旗を掲げた乗用車がやってきました。すれ違いのため、3台のトラックは停止し、路肩に寄せながらバックを始めました。

前日の横浜地方は夜半まで強い雨が降り、市内では連合国軍の爆撃機が街を襲いました。翌朝は小雨で次第に止む空模様でした。田奈部隊に通勤する生徒は長津田駅構内の外れから、部隊に延びる単線の貨物引込線を機関車につながれた荷物車のような車両に乗り込み、部隊の中心部にあるプラットホームまで通うのが常でしたが、この日は警戒警報発令中だったためか牽引の機関車が東神奈川駅で留置されたまま、長津田には回送されませんでした。そのため、4年生5クラスの通勤組は、 3台のトラックに分乗し、2回に分けて弾薬工場まで行くことになったのでした(*注1)。

トラックが後退を始めたところ、2号車がバランスを崩して傾きだしました。一旦動きは止まったものの再び傾きだし、約50名の4年2組の生徒を荷台に乗せた無まま、車体は横転し天地を仰向けに、川の中に沈み、最終的に無蓋トラックは「への字」型に川底に着地しました。それは映画のスローモーションのような、一瞬だったそうです。

その際に荷台から放り出される者もいましたが、トラックの運転台と荷台の隙間に閉じ込められた生徒達は、冷たい水の中をもがきながら這い出し、脱出できた者はトラックに取り付いて下敷きになっている級友を助け出そうとしました。次第に後続車や近隣の方々、寄宿組の生徒、先行車の生徒、部隊の関係者などが駆け付け救助に当たりましたが、今泉正三、漆原光一、辻義雄、戸羽盛良、西谷基一、山口渡の6名は、帰らぬ人となって引き揚げられました。

6体の亡骸は戸板に乗せられて、部隊医務室に安置され、清められ、当日通夜が営まれました。被災者は一旦付近の農家の庭先で救護されたのち南寮に収容され、重患者は相模原陸軍第三病院に搬送されました。犠牲者6名は軍属として扱われ、12月2日(1日という記録もある)田奈部隊、神奈川県、学校の合同葬が田奈部隊にて執り行われ、荼毘に付されました(のち本葬が久保山斎場で行われた)。この事故は、軍秘として処理され公には一切が伏されました。

 
(*注1)
このトラックの長津田駅から事故現場までの運行ルートは、現在の県道(主要地方道)139号長津田真光寺線こどもの国通りとほぼ同一である。

⇒ 第1話  プール跡の春とこどもの国線
⇒ 第3話  戦争中の青春 ~勤労学徒動員と二中生~