6-1慰霊祭(事故から20年)

5月には創立50周年記念式典・記念祭が盛大に挙行された昭和39年(1964)11月29日、横浜市立田奈中学校にて田奈部隊遭難犠牲者の慰霊祭が、中28回卒業生(同期会・ふたば会)の主催で行われ、本校から高野弘校長をはじめ多数の関係者が参列しました。

6-2こどもの国開園

昭和34年の皇太子殿下(現今上天皇)ご成婚に際して一般から寄せられたお祝い金1700万円を、ご夫妻が「厚生事業に」と拠出されたため、厚生省はこれを基金に「こどもの国」をつくることにしました。翌昭和35年5月に接収解除、ただちに建設にとりかかりました。昭和36年5月5日に米陸軍第八軍司令部火薬廠は返還、昭和39年5月5日に仮開園(「こどもの国まつり」開催)、昭和40年5月5日に皇太子殿下ご来臨のもと開園式が挙行されました。

開園当初、こどもの国へのアクセスは長津田方面からのバス(かろうじて通行可能だった)のみによるものでした。昭和42年4月28日、常陸宮ご夫妻を迎えて田奈部隊までの貨物引込線の廃線を再利用したこどもの国線の開通式が挙行され、同日午後より一般営業が開始されました。昭和41年に東急田園都市線が溝の口から長津田まで延伸していたこともあり、東京からのアクセスが一段と改善されました。


一方、小田急線鶴川駅からバスの便を図るため、こどもの国西側・奈良町バス停付近から先の道路整備が並行して進められました。地権者との交渉が難航したため、川崎市飛地の岡上から世田谷町田線の鶴川駅東口交差点まで、鶴見川と小田急線の線路をまたぐ岡上跨線橋を架け、こどもの国敷地の西縁に川崎市飛地までの道路を新設しました。そのほか既存の道路の拡幅と舗装が行われました。昭和41年12月に着工、昭和44年3月16日に新道部分の開通式と祝賀パレードが行われ、県道(主要地方道)139号真光寺長津田線は全通しました。

田奈慰霊碑は道路拡幅・整備のため川岸に建てられていたのを、道の反対側に移設されています。その際住吉神社のご厚意で敷地の一部を使用させてもらっていて、整備にかかる費用で移設がなされています(移設先と移設元は道路の真向かいではない模様)。慰霊碑に関する資料にはその移設時期の記載がなく(建立時に嶋村力横浜市会議長(中2回)、朝倉次郎横浜市港北土木出張所長(中16回)の尽力により慰霊碑付近の道路が拡幅されている旨の記述が文献にはあります)、昭和41年11月30日に田奈慰霊碑に参拝して手塚教頭先生とふたば会関係者が献花している写真には建立時の位置に慰霊碑はあり、同様に後述するタウン誌写真集に掲載の慰霊碑の写真も撮影時期は昭和42年4月となっています。

 

 

社会福祉法人こどもの国協会が平成8年9月に刊行した「こどもの国五十年史」には上述の真光寺長津田線の着工区間は3.4kmと記載されていて、ヤフー地図の距離計測機能で県道139号真光寺長津田線の鶴川駅東口交差点から住吉神社前交差点までを測ってみると、同区間の距離は3.7kmとなります。一方、昭和44年3月までに完成した新規着工区間の距離を足しても1.5km~1.6km程度にしかならないので、道路拡幅による慰霊碑の移設時期はこの県道の整備の行われた昭和42年から昭和44年にかけてと推測されます。

6-3乙女の善意がみのる

昭和41年5月1日、初代瀧澤校長ら職員52名を含む物故者780名あまりの霊を弔う法要が鶴見区の曹洞宗大本山總持寺大祖堂で盛大に行われました。 学校からは高野校長職員や生徒の代表、そして数多くの卒業生も出席しました。

田奈部隊遭難事故犠牲者6名も含まれ、ふたば会と翠嵐会の合同慰霊祭となりました。

ことの始まりは前の年の夏休みの郷土史研究で田奈部隊遭難の慰霊碑を見学した東横学園大倉山高校の女子生徒が建立の由来を土地の人間から聞き、「慰霊祭を行うことがあったら」と横浜市民生局にお小遣いを寄附したことで、それを受けて市職員が終戦の日に慰霊碑に献花しました。


この話を当時の翠嵐会関係者が知るところとなり、感激して同窓会としての慰霊祭の開催が持ち上がりました。遭難した6名に加えて、物故した恩師や会員も慰霊することとなり(昭和40年末開催の評議員会にて決定)、当時神奈川県公安委員長を務めた太田清一氏(中1回・翠嵐会初代理事長・会長)を委員長とする実行委員会が組織され、場所も總持寺に変更され、大法要が実現したものです。


 

 




第5話 田奈慰霊碑の建立
第7話 六つのみたまに