創立と初代校長
翠嵐高校の前身の県立第二横浜中学校(通称横浜二中、二中)は大正3年(1914年)に開校しました。(第二次世界大戦前の旧制中学 は5年制で現在の中学1年生から高校2年生にあたる生徒が学んでいました。)それまで県内には4つの県立中学校がありましたが、 横浜には第一中学校(現希望が丘高校)があるだけでした。当時横浜の人口は50万人を数え、2番目の中学校が切望される中で横浜二中は 大きな期待を担って開校しました。
初代校長は瀧澤又市先生です。新潟・東京の中学校の先生、福井県立武生中学校の校長をされてから横浜二中に約18年間在職されま した。温和な先生は横浜二中とその生徒を大変愛し、生徒から尊敬され慕われました。その中で先生は「平凡主義」といったことを 生徒に話されました。これが時代とともに「大平凡主義」という言葉になって現在に伝えられています。
ここでは翠嵐高校の校風というと必ずいわれるこの「大平凡主義」について紹介致します。
大平凡主義について
昔から、翠嵐高校の校風を表す言葉として「大平凡主義」という言葉が使われてきました。今となってはこの「大平凡主義」の実体 ははっきりしませんが、80年を越える翠嵐高校の歴史と、現在まで受け継がれてきた翠嵐高校の自由な校風を表すには欠かせない言葉 です。
「大平凡主義」は翠嵐高校の前身である横浜二中の初代校長瀧澤又市先生が唱えられた「平凡主義」に始まる言葉です。瀧澤校長 先生は二中が創立された大正3年(1914年)から昭和6年(1931年)9月まで約18年間、二中の校長を務められました。創立からこれだけ長く 一つの学校で校長をされた瀧澤校長先生が与えた影響は非常に大きいと考えられます。
当時は「修身」と呼ばれる授業があり、瀧澤校長先生が直接授業をされていました。この授業の中で瀧澤校長先生は「人をかき分けて 生きてゆくようなことをしてはならない。平凡主義で世の中を渡っていきなさい。」とお話になりました。集団生活の中での協調性を重視 する先生の考え方は、当時先生が野球を禁止しサッカーを正規の授業として取り入れたことにも表れています。一人の人間が抜きんでる よりも大勢の人が協力していくことが大切であるという考えで、個人プレーが目立つ野球よりもサッカーを勧められたのです。このおかげで、 二中は神奈川県ひいては日本におけるサッカー界の草分け的存在になりましがた、野球が人気だった当事のこと、瀧澤校長先生が転任された 翌年には野球部ができました。野球はやりたくてもやらせてもらえなかったというのが実情のようですが、それだけ瀧澤校長先生は、ひとつの 信念を通されたのでしょう。
この「平凡主義」は生徒に自信を与える源にもなりました。当時の校名が示すとおり、横浜に最初にできた旧制中学校は第一横浜中学校 (通称、神中、現希望が丘高校)ですが、神中と比較し、競うことなく行動するということを瀧澤校長先生は「平凡主義」と通して 教えられたのです。
瀧澤校長先生が唱えられた「平凡主義」がやがてまわりの先生や卒業生などによって「大」をつけて「大平凡主義」と言われるよう になり、伝えられてきたようです。「平凡主義」が時を経て「大平凡主義」といわれるようになるとともに、この言葉は受け取る人や時代 によってさまざまな解釈がされるようになりました。ここでは「一日一日を大切にすること」、という解釈をあげておきましょう。 大平凡とは、平凡なことを大切にする、平凡であることの価値を認めて大切にする、つまり言い換えれば、当たり前のことを大事にし、 一日一日を大切にすることなのです。私たちは、日々を何気なく、当たり前だと思っていることにも実はさまざまな人の努力や土台がある のに、それに気づかずに過ごしてしまってはいないでしょうか。
大平凡はこのようなメッセージと考えることもできるのではないでしょうか。
また、二中の創立の頃、社会は大正デモクラシーの考え方が広がり始めた時代です。民主主義には大勢が話し合いで進めていくという 原則があります。そのためには、個人の意見が異なるのは当然なので、いきなりベストを求めるのではなく、ベターを求めることが必要と なってくる、そんな考え方が大平凡主義にも通じるのではないでしょうか。
そしてこれは、生徒一人一人の意見を尊重するという翠嵐高校の自由な校風にも通じるものがあります。
つまりここで言う「自由」とは、自分とその他大勢との調和の中において生まれるものなのです。自分だけがベストばかりを主張し ても「自分勝手、わがまま」と思われるだけです。それは決して「自由」とは言えないということを私たちはもう一度考える必要がある でしょう。
先に述べたように、「大平凡主義」をどうとらえるか人それぞれです。
しかし、私たちが一日一日を大切にし、自主性と協調性を持って行動できたとき、「大平凡主義」に象徴される翠嵐高校独自の 「自由な校風」を初めて語ることができるのではないでしょうか。
校名の変遷と由来
本校は、大正3年(1914年)「神奈川県立第二横浜中学校」として誕生し、大正12年(1923年)に「県立横浜第二中学校」となりました。
戦後の学制改革で昭和23年(1948年)には「県立横浜第二高等学校」となりましたが、この名称はわずか2年で姿を消します。新制 小、中学校はすでに男女共学であり、これを受け入れる高校でも共学が始まりました。そこで「女子」や「第一」「第二」といった順序 をなくすのに伴い、新校名を考えることになったのです。
生徒の希望を調査した結果では約六割が「神奈川高校」、三割弱が、「翠嵐高校」を望みました。PTA(現翠和会)と翠嵐会(同窓会: 大正8年発足、初代会長は瀧澤校長先生)との合同協議会は、第一案に「神奈川高校」、第二案に「横浜翠嵐高校」と決定しましたが、 県教育委員会臨時会では、近くに神奈川学園があるため紛らわしいとして第二案を採用し、現在の校名「神奈川県立横浜翠嵐高等学校」 が生まれたのです。
「翠嵐」という言葉は校歌の冒頭に「美なりや翠嵐 煙波の港」として出てきます。「翠嵐」の意味は薄青色の山の気、樹木の青々と したさまといったものですが、当時人家がほとんどない学校のまわりの緑の木々の情景を表していました。校歌の「翠嵐」という言葉が 同窓会の名前に使われ、さらに校名にまでなったということです。
「翠嵐」は旧制中学の卒業生から現在の生徒まで愛着のある言葉なのです。
校章の由来
現在の校章は、桜の花と旭に光を組み合わせた真ん中に高校を表す「高」の文字が入ったものです。旧制中学の校章は現在の「高」 のところに「中」の文字が入っていました。実はこの図案は、都立両国高校の校章と同じで違いは中の文字だけです。
初代瀧澤校長先生は以前勤められていた東京府立三中(現両国高校)の校風が気に入られたそうで、二中の校章に東京府立三中と 同じものが採用されました。
「美なりや翠嵐」平成9年3月1日初版 翠嵐会発行 冊子より抜粋(現在は発行されておりません)
※瀧澤又市先生の「滝」の字は「瀧」と、「沢」の字は「澤」と表記されることもあるようです。