ふたつの碑〈いしぶみ〉物語 ─ふたば会の戦後─

ふたつの碑〈いしぶみ〉物語 ─ふたば会の戦後─

第7話 六つのみたまに

  • 第7話 六つのみたまに
    第7話 六つのみたまに

    7-1慰霊祭(事故から41年)

     昭和60年(1985)11月30日横浜市立奈良中学校にて田奈部隊遭難犠牲者の慰霊祭が行われ、遺族や中学28回卒業生、さらに戦時中の学徒動員当時、横浜二中28回生(事故当時4年生)と同時期に田奈部隊に動員された神奈川高等女学校(現神奈川学園)29回・30回生の方々など約150名が参列、本校からも石曽根健校長ほか関係者が出席しました。

     その模様は、同年12月1日付けの神奈川新聞は「六人のめい福祈る・・・・・・旧横浜二中、事故から四十一年、同期生らが慰霊祭」と報じられています。

     さらにこの時より同期の白井勲氏は、桜の苗木を育て始めました。

  • 7-2「神奈川県立横浜第二中学校二十八期生の記録」刊行

     この慰霊祭の席上、出席者にはアンケート用紙が配られました。アンケートは横浜二中二十八期生だけでなく、参列した神奈川高女の卒業生にも配られ、記入後回収されました。

     このアンケートが4名の編集委員、2名の名簿編集委員によってまとめられ、文化事業部脇坂茂樹氏(高2回)ら神奈川新聞社、そして國武忠彦先生(旧職員)をはじめとする学校の協力も得て、8か月後の昭和61年8月31日「神奈川県立横浜第二中学校二十八期生の記録」が刊行されました。

    第7話 六つのみたまに

     発端は昭和60年3月14日にゴルフ同好の9名がコースに集まった際の会話から、追善供養の話が持ち上がり、その9名が発起人となって11月の慰霊祭と想い出の記の冊子の発行が進められた実現の運びとなったものです。

     記事は昭和16年4月1日の入学から、勤労動員、田奈部隊への動員、6名の遭難、卒業、慰霊碑の建立と続き、年表や口絵の貴重な写真で構成されています。いわばみんなで記憶を持ち寄って、それを文字起こしし、一つの文章を紡ぎだしてつくられた記録集となっています。

     昭和24年に学校は2度の火事に見舞われたため、戦前の横浜二中の公式記録の類は乏しく、また終戦直後に校地の一部が進駐軍(MP部隊)によって接収されたためか、学徒勤労動員の学校側の実施機関となった横浜第二中学校報国団に関する記録は他校と比べても極度に少ない状況です。加えて二十八期生が動員された先の田奈部隊は軍事施設で機密が多く、終戦時には他の公的機関同様に証拠資料の隠滅が図られたでしょうし、事故も軍事機密に指定されたため、資料もなく、報道もなされませんでした(時局柄、紙の供給が抑制されていて、たび重なる空襲など大きな出来事も数多くもあったため、仮に情報統制がなされてなくとも新聞報道されたかどうかは不明)。

     これらのことを考え合わせるとなおのこと、記録が殆ど現存しえなかった部分を再現して復元がなされた、大変貴重かつ重要な記録集であるといわざるをえません。

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    第7話 六つのみたまに
    第7話 六つのみたまに
    第7話 六つのみたまに

    7-3プール跡に横浜緋桜を植樹

     平成6年10月29日、母校は創立80周年の祝賀ムードに包まれました。翠嵐会からは吹奏楽部に楽器を寄贈、音楽の川上哲夫先生の指導により弦楽部・吹奏楽部からなる「翠嵐フィルハーモニーオーケストラ」が編成され、この日のために練習が繰り広げられました。そして10日前には川崎市教育文化会館で80周年記念の芸術鑑賞会が行われてお祝いの気分が高められました。 _当日は第一部が体育館で記念式典を挙行、第二部が「翠嵐フィルハーモオーケストラ」による記念演奏、第三部が平成5年2月から3月にかけて撤去された旧プール跡地に記念事業として設置されたモニュメント「MOMI-1994(野生稲の発芽2)」の除幕式が行われ、制作者である彫刻家の故・田辺光彰氏(高9回)の挨拶や松井薫子校長、平戸健市第9代会長(高3回)、藤沢光昭翠和会会長、作者令夫人、全日制生徒会長による序幕が吹奏楽部によるファンファーレを演奏する中で行われました。

     これに先立つモニュメントの制作・設置および旧プール跡地の多目的利用のための整備などは、翠嵐会が創立70周年の翌年、昭和60年度より毎年積み立てた資金と総額1000万円以上におよぶ会員より募った「80周年お祝い金」により賄われました(昭和61年度より会費納入制度導入、昭和62年度より翠嵐会報の発行を開始〈復刊〉)

     除幕式を盛り上げる吹奏楽部のテント背後の多目的利用スペースには、バス通り側フェンス沿いの旧プール観客席が撤去された土手の手前に6本の若木が等間隔に植えられ、更衣室などがあった敷地の角には前述の松本七郎氏が手配した県産の小松石の石柱が、創立80周年記念式典当日に間に合わせるように据えられました。

     記念式典前日の28日に翠嵐時報第225号が発行されています。この号は「創立80周年記念特別号」として、長洲一二県知事(当時)の独占インタビューや八木功氏(中30回)の手記をもとにした横浜大空襲の記事、大平凡主義を取り上げるなど大変意欲的な編集となっています。この中で田奈部隊遭難を特集する「戦争によって受けた傷 六本の桜 六人の友」という記事が掲載されています。

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    第7話 六つのみたまに
  •  その記事の中で児玉宏氏と鈴木素一氏が時報局員のインタビュー取材に答えています。それに加え前述の「記録」と後述の会報記事、およびネット検索によると、この6本の桜は、桜の研究を行っていた白井勲氏が品種改良の結果昭和47年ごろに完成させたソメイヨシノ以来(三百年来)の新品種で寒緋桜の(花粉・父)を兼六園熊谷(タネ・母)に交配させたものだそうです(*注6)。

     この植樹をふたば会が決定したのは昭和60年11月30日の奈良中学校での慰霊祭のことでした。創立80周年記念事業・記念行事を伝える会報第8号掲載の「戦争中の青春-田奈部隊の六名を偲ぶ六本の桜-(児玉宏氏)」には、植樹および「慰霊の櫻木」の碑設置直後と思われる写真(石柱を乗竹恒男氏・松本良彦氏・児玉氏・徳江宏氏が囲んでいる)が掲載されています。

    (*注6)

     公益財団法人大倉精神文化研究所ホームページ|地域情報|シリーズ わがまち港北|第75回 を参照されたい。

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