翠嵐カフェ

いのちの声を聴く

水野丈夫(中27回)
2011年5月21日 翠嵐会総会における特別講演
記録:山本陽史(高29回)

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1.はじめに

 この美しい三ツ沢の丘を巣立ってから、六十六年がたちました。懐かしい母校で、しかも同窓会で話ができることはまことに光栄であります。この機会をあたえてくださった翠嵐会の栗原会長、桑原副会長、役員の皆さん、会場を設定していただきました母校の中島先生に感謝申し上げます。そして、ふだん決して総会に来ないような同級生諸君が大勢応援に駆けつけてくれました。温い友情に感謝しています。また本日は翠嵐高校の生徒さんもここにおられます。易しくお話ししますので、是非最後まで聞いていただきたいと思います。

 一年半ほど前の翠嵐会報の巻頭言に文章を書きましたが、この巻頭言は字数の 関係で言葉が不足しておりました。今日はまずその話をして、次に私が聴いた 「いのちの声」のごく一部分を披露してみたいと思います。

 まず『配付資料(PDF)』をごらんください。これはウーラントという人が作った『渡し場で』という詩です。(訳詩をかいつまんで朗読)

新渡戸稲造(1862−1933)
新渡戸稲造(1862−1933)
 この詩を日本に紹介したのは新渡戸稲造です。お札(旧五千円札)になっていましたね。1887年にドイツのボン大学に留学したとき、ウーラントのこの詩を耳にしました。のちに彼は旧制第一高等学校の校長にもなりました。一高生たちを前にこのドイツ語の詩を朗唱して聞かせたところ、生徒たちは、ウーラントのあつい友情に感激しました。彼らも青春を生きていましたから。そして、ある生徒は、美しいこの原詩をいっぺんに覚えてしまいました。その後、それが一高生や卒業生の間に代々伝わって、ついに私の耳にまで入ったという次第です。

ルートヴィッヒ・ウーラント (1787-1862)
ルートヴィッヒ・ウーラント
(1787-1862)
 ウーラントは、後期ロマン派の詩人で、弁護士でも国会議員でもあった立派な人です。

現在のハイデルベルク
現在のハイデルベルク
 この詩の舞台はハイデルベルクです。ネッカー川が、街の中を東から西に流れ、やがてライン川に合流します。いらっしゃった方もおありかと思いますが、小高い丘の「哲学者の道」に佇めば、川をはさんで対岸に古城が見えます。この写真では渡し舟は見えません。有名なハイデルベルク大学や国立がん研究センターがあります。この大学からはノーベル賞受賞者が何人も出ています。筋肉が収縮するとグルコースが分解して乳酸が貯まってくる、これを発見してノーベル賞を受賞したオットー・マイエルホーフなどです。私は国立がん研究センターに招聘され、講演を行いました。大学町ですので学生の飲み屋などもたくさんあります(脱線)。

1840年ごろのハイデルベルク
1840年ごろのハイデルベルク
 ウーラントがこの詩を詠んだ頃、イギリスの風景画家ターナーは、ハイデルベルクを訪れ、この街に魅了されて、この水彩画”Heidelberg, with a Rainbow”を描きました。前の写真とほとんど同じ場所ですが、渡し舟が見えます。橋と橋との間隔が長いので渡し舟があったのでしょう。

 これからこの詩に沿って話を進めていきます。

 私もかつて横浜二中という川を渡っていました。二中時代の思い出は尽きずあふれ出てとどまるところを知りません。私たちは、いまから16年前に、卒業五十周年を記念して 『われら横浜二中二十七回生』 という文集を作りました。それには戦時下における青春の思い出がいっぱい詰まっています。残念ながら今日はその内容に触れる時間はありませんが、私なりの二中時代の思い出を少しお話ししてみたいと思います。

昔の横浜二中
昔の横浜二中
 まず昔の横浜二中の航空写真を御覧ください。この写真は二中21回生の桑島齊三先輩から頂きました。ここが正門で、右にプールがあり、左に図書館も見えますので、少なくとも創立十周年以降に撮影されたものでしょう。基本的には現在の翠嵐高校と校舎の配置は似ていますが、平屋造りで4列です。私たちの時代は正門から出入りすることは禁じられていて、通用門からでした。校舎の北東に位置する化学の教室と生物の教室。これからお話しする思い出の舞台です。

 

2.先人の声を聴く

 ウーラントの詩を読むと、「お父さんにも似た友と」とありますが、今日は二人の恩師のお言葉に耳を傾けてみたいと思います。

☆藤本正一先生
 お一人は化学担当の藤本先生です。物のない戦争中でしたが、先生は毎時間のように化学実験を生徒にさせてくださいましたので、私たちは化学反応の面白さに引きずり込まれていきました。

 ある時のこと、級友たちは周期表にある元素記号や原子量とかをどんどん覚え始めました。暗記の苦手な私は暗い気持ちで先生のところに行き、これを全部覚えなければいけないのですかと伺いました。もしその時先生が、「もちろんだ、全部覚えなさい」とでもおっしゃったなら、私はたちまち化学が嫌いになって、学校も嫌いになり、たぶん不良になっていたと思います(笑)。ところが先生は、ニコニコされて 「そんなものを覚えることは全くない。理科は覚えるものではない」とおっしゃったのです。私は「やったー」と思い、化学がいっぺんに大好きになりました(笑)。いまから思えば、先生はサイエンスというものの真髄と、生徒の心理をつかんでおられた真の教育者でした。理科を好きにさせてくださったお父さんのような藤本先生にいまなお感謝で一杯です。

☆大谷 弘先生
 もう一人の先生は生物担当の大谷先生です。先生は二中8回生の先輩で、広島高等師範学校(現広島大学教育学部の前身)を出てこられたバリバリの先生でした。大谷先生は開口一番、「新しい生物学を君たちに教える。教科書はしまいなさい」とおっしゃいました。今から思えば、動物や植物の生理形態学に関する、当時としては最新の授業で、生物の形態と機能は紙の裏表のように不可分のものであることを示すものでした。私は「いのち」に関する深い洞察に満ちた大谷先生の授業が大好きでした。

 ここで個人的に感謝しなければならないことがあります。それは、のちに私が大学を受験したときのことです。生物の問題の一つに、「あなたが今までに解剖したことのある無脊椎動物の図を描け」という記述式の出題がありました。さて、何を書こうかとちょっと隣を見ますと、本当は見てはいけないのですが(笑)、答案用紙いっぱいに、大きなアメーバを1匹描いていました(笑)。その時です。二中で大谷先生に教えていただいたバッタの解剖図がありありと頭に浮かんだのです。思わず「やったー」と思いましたね。そしてその解剖図を描き、内臓の機能も書き加えることができました。私が合格したのは大谷先生のおかげです。

 ウーラントの詩に戻ります。「希望に燃えた若いのと」とあります。この友人は「勇ましくいくさの庭」に出て行って死んでしまいます。ここで私が思い出すのはこのかたです。

☆大江一郎先輩

大江一郎先輩
大江一郎先輩
 大江先輩は、二中24回生。横浜二中の誇る秀才で、人望篤く、級長でした。太平洋戦争が始まって風雲急を告げるとき、海軍兵学校に進まれ、昭和19年3月に卒業されるとすぐに「名取」という巡洋艦に配属されました。当時名取は、フィリピンからパラオ諸島に人員や物資を輸送する任にあたっていました。艦長は久保田大佐という人で、たいへん部下思いの素晴らしい方でした。出撃に際し、司令部の「物資をできるだけ多く積め。カッター(救命ボート)は陸揚げせよ」という勧告を艦長は頑として拒否し、「カッターはそのまま。予備魚雷を陸揚げせよ。上甲板に材木を積めるだけ積め」と命じました。

 昭和19年8月17日、名取がフィリピンから出撃すると、敵の潜水艦の無線交信が聞こえ、複数の潜水艦に囲まれていることが分かりました。大江さんは10日ほど前から疑似赤痢のため艦内の自分の部屋で休んでいましたが、健気にも見張りの任につきました。翌18日未明2時40分、敵潜が放った魚雷が走ってくるのが見えたので、名取は急いで回避しようとしたが間にあいませんでした。火災が発生し、懸命の消火活動にもかかわらず名取は夜明けとともに次第に沈んでいきます。艦長は乗員救助のための号令を次々と発し、最後に「総員退去」を命令したのち、自分は艦と運命をともにしました。

 大江さんは海に飛び込み、沈没した艦から海上に流れ出た重油を飲みましたが、幸いにもカッターに乗り移ることができました。そこで味方の救援が来るかと一晩待ちました。折しも熱帯低気圧が2つも接近していて、波は高く、冷たいスコールも来たので、泳いでいるものは疲労困憊です。翌朝、夜が明けると、重油で目が見えなくなったH少尉が、材木に掴まってはいるものの、ふらふらで手を離すと沈んでしまうほどぐったりして漂流してきました。よくみると水兵5名も一緒です。弱りきっているH少尉を助けたいが、彼だけを助けるわけにもいかず、さりとて6名全員を乗せる余裕はない。そこでリーダーの一人が「誰か代わってやってくれ」と言いましたが、みな自分の命が惜しいので、立ち上がるものはありません。その時です。H少尉の苦境を見かねた大江さんは自発的に手をあげ、「自分が代わります」と言って、風速10mの荒れ狂う海に入ったのです。友のために死を選択する、これ以上の崇高な行為はありません。たとえ、これが戦争の場でなくても、大江さんは同じように行動されたことでしょう。

 大江さんは「当たり前のことをしただけさ」とおっしゃると思います。 大江さんのような素晴らしい方を二中の先輩にもつことは私たちの誇りです。

☆翠嵐の丘を巣立った海の防人
 私もかつて大江さんに続いて(海軍兵学校という)同じ川を渡っていました。その学校は瀬戸内海に浮かぶ白砂青松の江田島にありました。昭和20年8月6日朝、原爆の青白い閃光と凄まじい爆風を浴びました。眼前にもくもくと空高く立ち上がるきのこ雲。爆心地からわずか12km。それから間もなく、完全に廃墟になった広島の街を南から北へ何時間も歩きました。それにもかかわらず、何故か生還し、戦後を長く生きました。

 大学を卒業後は、ずっと生物学の研究をしていましたが、その間、いくさの庭に倒れた二中の先輩がたのことを片時も忘れられませんでした。多くの方は遺骨もありません。ご遺族も老化されてしまう。だんだんと記憶が風化して、先輩がたの存在すら忘れさられてしまう。何とかしなければという思いにかられ、大学を定年になってから、二中から海軍兵学校に進学された方々全員のお名前や記録を集め始めました。そして10年以上の歳月を費やして、やっと『翠嵐の丘を巣立った海の防人』という冊子がまとまりました。その中には、先輩がたがどのように生き、どのように死んでいかれたかが書かれています。これを母校の同窓会に保存していただけるかどうかとおそるおそるお伺いしたところ、翠嵐会の会長さんと副会長さんから前向きの心温まるご返事を頂くことができました。そして、いまからちょうど三年前の2008年5月に、その冊子の贈呈式が行われました。江田島を卒業後、いくさの庭に倒れた二中の先輩がた16柱の魂は、母校同窓会に迎えられ、いまは安らかに三ツ沢の丘に眠っておられるものと私は思っています。快く受け入れてくださった栗原会長はじめ翠嵐会役員の皆様お一人お一人の温いお気持ちに感謝でいっぱいです。

 皆様も、人生においてそれぞれの川を渡ってこられたと思います。若い方々はこれから渡っていくのだと思います。皆様が亡くされた大切な人、愛する方々のことを偲びながら、1823年ルートヴィッヒ・ウーラント作詞、1843年カール・レーヴェ作曲、ヨーゼフ・グラインドルによる歌を聴いてください。(ドイツ語の楽曲のテープを流す)

 

3.いのちのささやきを聴く

ヴォルフ教授(1904-1996)
ヴォルフ教授
(1904-1996)
 これまで二中の先人の声に耳を傾けてきましたが、今度は私が聴いたいのちの声をご紹介することにしましょう。それは1969−1970年に文部省在外研究員として、フランスのエチエンヌ・ヴォルフÉtienne Wolff 教授のもとに留学してからのことです。

 ヴォルフ教授は、ドイツとの国境に近いアルザスの出身。ストラスブール大学で実験奇形学の研究を行い、見事な成果を得ていました。やがて第二次世界大戦が始まって、砲兵連隊陸軍中尉としてマジノ線(フランスがドイツからの防衛のため構築した要塞線)の守備についていましたが、不運にも背後から襲いかかるドイツ軍の捕虜となり、5年間にわたってつらい収容所生活を余儀なくされました。しかしその間、めげることなく、『奇形の科学』 265ページと、『性の転換』 297ページの大著を執筆したのです。1945年5月、ドイツが無条件降伏すると、いちはやく大学へ復帰。器官培養(肝臓とか膵臓といった器官を、形態や機能を保ったまま培養すること)の技術を開発して、体内のいろいろな器官がどのようにしてでき上がるのかなどを研究し、フランス発生学の基礎を築きあげました。1955年、コレージュ・ド・フランス(国立大学の一つ)の教授に就任し、パリに移りました。また、後年、フランス学士院会員に選出されました。私が留学したのは、ヴォルフ教授の研究がまさに花ひらいているときで、冬でしたのに研究所は熱気に包まれていました。

 第一日目。ヴォルフ教授は若いマドモアゼルに命じ、私に対して器官培養の手ほどきをさせました。しかし、とても難しいので、私が「こんなことは不可能だ」とつぶやくと、思わぬ言葉が返ってきました。「フランスには不可能ということはないのよ」。そこで、すかさず「それはナポレオンが言った言葉でしょ」と反論すると(笑)、涼しい顔でたちどころに「いいえ、フランス人なら誰でもそう言っていますわ」。優しいマドモアゼルにそう言われて、「文化」は優しさと強さを兼ね備えたものであると実感しました。校歌の「文化」のくだりを歌うとき、いつも私の脳裏にそんなエピソードが浮かぶのです(脱線)。

 

☆どのようにして男女がきまるか?
 これから私が聴いた「いのちのささやき」の話をしようと思うのですが、今日は、皆さんに興味をもっていただけるよう、「どのようにして男女の区別ができるか?」という身近な話題にしぼって、「いのちの声」とその聴き方を分かりやすく話してみたいと思います。

 この会場には、現役の翠嵐高校の生徒さんがおられますので、手伝っていただいて説明しましょう。そこの生徒さんお二人、どうぞこちらの壇上にいらしてください。
(男子生徒は赤と緑のボール、女子生徒は赤と赤のボールをくっつけて持ちます。)

 まずは、小学五年生(理科で「人の誕生」を学習する)でも分かる説明です(笑)。この2個のボールは男女の性をきめる小さな粒で、ヒトのからだを構成する60兆個のすべての細胞がもっています。唯一の例外は、精子と卵子です。精子(または卵子)ができるときは、2個のボールは分かれて(生徒はボールを持った手を左右に離す)、1個ずつ精子(または卵子)に入ります。受精するとき、もし赤いボールをもつ精子が卵子の中に入ると、赤と赤ですから、女の子が生まれます。逆に、緑のボールをもつ精子が卵子の中に入ると、緑と赤ですから男の子が生まれます。

 高校生レベルでこれを言い直しますと、赤いボールはX染色体、緑のボールはY染色体です。卵子ができるとき、減数分裂により、女性がもつXとXは分かれて卵子に、また、精子ができるとき、男性がもつXとYは分かれて精子に、入ります。したがって、卵子はすべてX染色体を1個もっています。精子には、X染色体を1個もつ精子とY染色体を1個もつ精子ができます。そして、受精により再結合がおこり、XXなら女の子、XYなら男の子が生まれます。Yがあると男になりますので、Y染色体が男になりなさいとささやいていると推定されます。事実、Y染色体があると、精巣ができます。(お二人の生徒さん。ご協力ありがとうございました)。

 このように、ヒトの性は受精の瞬間に決まりますが、動物によっては、これとは別のしくみで性が決まるものがあります。また、ミミズのように精巣と卵巣の両方をもつ動物もいます。

☆精巣になれという声
 それでは、まず「精巣になれ」という声を聴いてみましょう。だんだん大学程度の話になります(笑)。染色体は、中ほどにくびれがあって、短腕と長腕からできています。染色体には遺伝子がありますが、遺伝子の位置は染色体上に番地として示されます。番地はくびれの位置が0番地で、染色体の両端に行くにつれて大きくなります。ヒトではY染色体の短腕の11.3番地にSRYという遺伝子があります。また、男子でも女子でも、胎児のお腹の中に生殖上皮(=生殖堤)という場所が左右にできますが、そこでSRY遺伝子がはたらくと、生殖上皮は精巣になり、SRY遺伝子がはたらかないと、生殖上皮は卵巣になるのです。

 もう少し詳しくいうと、Y染色体のSRY遺伝子がはたらくと、SRYというタンパク質(男性決定因子)ができて、これが生殖上皮に「精巣になれ」とささやくのです。

☆子宮よ、なくなれという声
 次に「子宮よ なくなれ」という声を聴いてみましょう。

 胎児のおなかの中には、男女にかかわらず、妊娠5週目ごろに「ミュラー管」という管が左右1本ずつできます。(ミュラー Müllerはこの管の発見者であるドイツ人の名前)。この2本の管は、ほぼV字型に配置されていて、やがて、女子胎児では、上部は卵管になり、下部は左右が融合して子宮と膣(ちつ)上部になります。それに対し、男子胎児のミュラー管は、妊娠10週目ごろには死んで、消失してしまいます。男子胎児のミュラー管は、なぜ死んでしまうのでしょうか。

 ヒトの胎児は実験に使えないので、代わりにネズミの胎児を使います。雄でも雌でもよいのですが、胎児から左右のミュラー管を取り出し、そのまま器官培養すると、雄の管でも雌の管でも、卵管・子宮・腟上部になります。しかし、胎児の精巣を横にくっつけてミュラー管を培養すると、雄の管でも雌の管でもミュラー管は見事に退化してしまいます。

 それでは胎児の精巣の何が、ミュラー管に「退化せよ」とささやくのでしょうか。まず考えられるのは、胎児の精巣は、妊娠8週目ごろからアンドロゲン(=男性ホルモン)を分泌するので、「ミュラー管よ、なくなれ」とささやいているのは精巣から出るアンドロゲンかもしれません。そこで、ヴォルフ教授は、精巣の代わりに、いろいろな濃さのアンドロゲンを培地に加え、その上で雄・雌のミュラー管を培養してみました。ところが、予想に反して、ミュラー管は退化しないばかりか、立派な卵管・子宮・腟上部ができてくるではありませんか。ミュラー管を退化させるのがアンドロゲンでないとすれば、いったい精巣の何がささやいているのでしょうか。

 精巣は、やがて精子をつくる器官でもありますので、胎児の精巣の中には「細精管」という精子をつくるための管がたくさんできます。また、細精管と細精管のすきまには「間細胞」という細胞があります。間細胞はアンドロゲンを分泌する細胞です。そこで、この細精管と間細胞を、解剖顕微鏡の下で、先が細く尖った2本のピンセットを用い、注意深く分離します。そして、それぞれをミュラー管の横にくっつけて培養すれば、どちらがミュラー管を退化させる犯人か分かるはずです。予想としては、アンドロゲンは効かないので「間細胞」はシロでしょう。

 実験の結果、ミュラー管を「間細胞」と一緒に培養した時は、予想通り退化しませんが、「細精管」と一緒に培養すると、みごとに退化します。すなわち、「ミュラー管よ、なくなれ」とささやいているのは、アンドロゲンを分泌する間細胞ではなく、精子をつくる管である細精管であることがわかります。では「ミュラー管よ、なくなれ」とささやくのは本当に「精子をつくる細胞」なのでしょうか。

 胎児の細精管の横断面をさらに詳しく調べてみましょう。細精管には将来精子をつくるための細胞(精原細胞)だけではなく、「セルトリ細胞」という大型の細胞がたくさん存在しているのが分かります。(セルトリSertoliはこの細胞の発見者であるイタリー人の名前)。セルトリ細胞は私が学生のころは、精子に栄養を与える細胞であるとか、単なる支持細胞であるとか言われていました。細胞分裂をしません。それに比べ、精子をつくるための細胞はさかんに細胞分裂します。細胞分裂がさかんな細胞は放射線に弱いので、細精管に放射線(実際にはコバルト60 から出るガンマ線)を照射すると、精子を作るための細胞は死滅してしまい、細胞分裂しないセルトリ細胞だけが生き残ります。

 そこで、雄でも雌でもよいのですが、ネズミの胎児からミュラー管を取り出し、その横に放射線照射細精管を並べて培養してみました。するとどうでしょう。ミュラー管は見事に退化したのです。これで、細精管のセルトリ細胞がミュラー管退縮に一役買っているのが分かりました。それではセルトリ細胞は、どんな言葉でミュラー管にささやくのでしょうか。

 先ほどみたように、Y染色体のSRY遺伝子は、精巣を規定し、細精管の中にセルトリ細胞をつくらせます。そして、ヒトではセルトリ細胞の第19染色体短腕の13.3番地にあるMISという遺伝子を活性化させます。MIS遺伝子は、ヒトでは妊娠6〜7週ごろから働き始め、とりわけ8〜10週の間、期間限定で活発にMIS分子 (=ミュラー管抑制因子) をつくらせます。セルトリ細胞がつくったMIS分子は、ミュラー管まで運ばれると、ミュラー管にささやいて、その細胞を殺し、退化させます。その結果、男子胎児では卵管・子宮・腟上部が発生しません。一方、女子胎児にはセルトリ細胞がないので、MIS分子はささやかず、卵管・子宮・腟上部が発生するのです。

☆前立腺になれという声
 次に「前立腺になれ」という声を聴いてみましょう。前立腺は男子の膀胱の基部と尿道との境界にある器官で、しばしば前立腺肥大症とか前立腺癌で悩まされますね。前立腺は女子にはありません。なぜでしょうか。

 男女とも胎児のときは、膀胱と尿道の境界部は膨らんでいて尿生殖洞(にょうせいしょくとう)と呼ばれています。前立腺はこの部分から発生します。実験ではネズミの胎児を使います。膀胱と尿道は不要なので捨ててしまい、尿生殖洞だけを器官培養します。驚くべきことに、雄のでも雌のでも尿生殖洞は、培地中にアンドロゲンがなければ前立腺をつくりませんが、アンドロゲンがあると、その濃度に比例して前立腺が発生してきます。

 もう少し詳しくいうと、尿生殖洞は、内側の上皮組織と、それを取り囲んでいる外側の柔らかい組織(=間充織)との2枚の層からできており、前立腺はこの上皮組織から発生します。しらべてみると、胎児では、アンドロゲンは尿生殖洞の間充織に取り込まれ、上皮組織には取り込まれません。それは、胎児では、アンドロゲンをキャッチする受容体が尿生殖洞の上皮組織にはなく、その間充織にあるためです。いま言ったように、前立腺は、尿生殖洞にアンドロゲンが来ると発生しますが、上皮にはアンドロゲンが入らないので、アンドロゲンはまず間充織に取り込まれ、そこから出るアンドロゲン以外の因子が上皮に「前立腺になれ」とささやくと考えられます。

 それでは、アンドロゲンを取り込んだ尿生殖洞間充織はどんな声で上皮にささやくのでしょうか。研究していくと、いろいろな種類の成長因子の声が聴こえてきましたが、そのなかで、いちばん重要な声はFGF10という成長因子であることが分かりました。したがってアンドロゲンを取り込んだ間充織はFGF10のような成長因子をつくって、上皮にささやき、それによって前立腺がつくられることが分かりました。

☆二つのパーツのドッキング
 以上のことをふまえ、女子胎児のことを考えてみましょう。女子胎児の尿生殖洞は、もしアンドロゲンが来れば前立腺をつくりますが、実際にはアンドロゲンが来ません。そのため尿生殖洞間充織でFGF10のような成長因子がささやくことはなく、女子では前立腺はできません。

 その代わり、女子胎児の尿生殖洞は、発生の途中で膀胱・尿道系から背側に分離して独立し、「膣下部」になるのです。そして、ミュラー管由来の「腟上部」は、尿生殖洞由来の「膣下部」とドッキングして、つなぎ服のような「膣」が完成します。

☆アンドロゲンの声が聴こえないと
 以上のことが理解できたかどうか、一つ応用問題をやってみたいと思います(笑)。

 それは、「アンドロゲン不応症」についてです。この患者さんの性染色体はXYです。Yがあるので、卵巣はなく、精巣を持つ男子ですが、全身のアンドロゲン受容体ARが欠損しているため、アンドロゲンが来てもそのささやきが聴こえません。

 ヒトでは、アンドロゲン受容体の遺伝子ARは、X染色体長腕の11番地にあります。何らかの原因で、受精卵のAR遺伝子に突然変異が起きると、全身のアンドロゲン受容体ARが欠損し、そのため、アンドロゲンは働くことができません。しかしながら、精巣の細精管のセルトリ細胞は健全なので、MISが出て、卵管・子宮・腟上部はありません。また、精巣の間細胞も健全なので、アンドロゲンは分泌されますが、アンドロゲン受容体ARがないので、尿生殖洞は前立腺をつくることなく、膣下部になります。また、アンドロゲンが働けませんので、ペニスは発生しません(ペニスは胎児の生殖結節という場所にアンドロゲンが働くとできるからです)。

 したがって、このような赤ちゃんが生まれると、女の子の名前がつけられ、女の子の服を着せられて、女の子として育てられます。しかし思春期になっても月経がみられず、診察を受けて初めてアンドロゲン不応症の男性であることが分かり、とても悲惨なことになります。このアンドロゲン不応症はマウスでもよく知られています。

☆いのちのささやきの特性
 これまでみてきた「いかにして男女の区別ができるか」は、ほんの一例です。お分かりになったように、私たちの体ができるとき、無数の「いのちのささやき」が聴こえてきます。しかも、この「ささやき」は無秩序に起きるのではなく、オーケストラのように統一された響きを持っています。期間限定のささやきもあります。しばしば胎児の中でおこる細胞死さえ、その統一の中にあるのです。その統一が乱されるとき、「個体レベル」では奇形や病気や死が起こり、「生物社会のレベル」では衰退や絶滅が起こります。

 

4.最後に

瀧澤又市校長(1868-1937)
瀧澤又市校長
(1868-1937)
 横浜二中の初代校長 瀧澤又市先生にはお目にかかったことはなく、二中時代から最近まで、はるか遠い存在でした。「大平凡主義」も聞いていましたが、何のことかよく分かりませんでした。しかし、最近になって、内田友昭(高17回生)さんが、先生の業績を丹念に調査されて、『瀧澤校長に懐う』 という素晴らしい伝記を纏めておられることを知ってからは、先生がとても身近に感じられ、「大平凡主義」についても見直す気持ちになったのです。それには次の三つの事情があります。

  • 瀧澤先生は、私事にわたって恐縮ですが、私が生まれた村のすぐ隣村のご出身であること。
    先生がごらんになった浅間山から烏帽子岳にかけての美しい山なみや、急流 の千曲川は、まさに幼い私の脳裏に刻まれている、なつかしい原風景です。
  • 瀧澤先生は、山極勝三郎教授の友人であられたこと。
    山極勝三郎(1863−1930)という人は瀧澤先生と同郷で、信州上田出身。東大病理学教授。昔から、英国などで煙突掃除を職業にしている人たちが、しばしば、陰嚢の皮膚癌になることが知られていたが、原因不明でした。そこで、煤の成分であるコールタールをウサギの耳に3年の間、しつこく塗り続けて、ついに世界で最初に人工癌をつくることに成功しました。
  • 瀧澤先生は東大在学中、中学時代の恩師が重い病気になられたと聞き、7日間も大磯の恩師の実家に泊まり込んで看病されたこと。
     現在、誰がこのようなことをするでしょうか。先生はのちに、「11歳で自分の父親を亡くしたときは涙を見せなかったが、恩師が亡くなったときは涙の泉堰を止めかねて 悲嘆愁憺の淵に沈んだ」と語っておられます。

 滝澤校長は、「大平凡主義」について、「人間として、当たり前のことを当たり前にすること」と教えられましたが、これは、ときとして崇高な行為にまで止揚されるのです。

 ドイツの詩人シラー Friedrich Schiller(1759-1805) は、「崇高なるものについて」 ”Über das Erhabene” という著書の中で、崇高=美であると言っています。滝澤先生や大江先輩はまさにそれを生きられたのです。私たちの校歌「美なりや翠嵐」の「美」にはこのように深い意味が秘められていると私は思っています。

 生物のいのちが「ささやきの網の目」により成立し、それが整然としていることが生命活動の基本条件であるように、人間の社会も「他者への優しさや思いやりの網の目」によって成立し、それが整然と行われることが社会を健全に保つ基本条件であろうかと思う次第です。

 私は、我が母校のふところの暖かさ、翠嵐会の皆様の優しさを感じ、また、網の目のように張り巡らされた同窓生の皆様との強い「絆」を感じています。そして「翠嵐」が、いつまでも「平和の旗風しるく」前進し、後輩の若い方々が、私たちが渡ったような川を渡って戦場に赴くことの無いよう心より祈っています。

 三年後に創立100年を迎える翠嵐高校と翠嵐会の、ますますのご発展を心よりお祈りして、私の話を終える次第です。ご清聴ありがとうございました。

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