翠嵐カフェ

第1回 想い出写真館

「校歌祭」スタート。翠嵐会初出場
第1回 青春かながわ校歌祭 ⇒記事を読む
平成18年10月21日(土)
神奈川県立青少年センター ホール(横浜市西区)
参加同窓会数 22 出演の順番 16番目
指揮  熊坂 良雄(高12回)
ピアノ 村上 曜子(高24回)
応援リーダー 藤田 敬 馬場 洋一 西野 幸治(ともに高20回)
校歌・第一応援歌・自由曲「ファニータ」
卒業生 65名
在校生 音楽部15名
担当 「校歌祭」準備委員会
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校歌祭は“効果大”

2015/8/24

副会長 馬場 洋一(高20回)

 翠嵐会は第1回から参加しています。第5回校歌祭では「当番校」を仰せつかりました。参加者数は毎年1〜2割が入れ替わりながら120人ほどが参加しています。

 「青春かながわ校歌祭」は一瞬にして青春時代に戻ることができるタイムマシンだと思います。言葉も交わせなかったあこがれの先輩に会えたり、“雲の上の応援団長”がただのオッサンになっていたり、美しい先輩が50年経っても美しかったり…。

 毎年3回の練習と本番、打ち上げと交流の機会があります。それを通じて参加者は親交を深めています。

 校歌祭は“青春”に戻るだけではありません、先輩、後輩の交流が活性化するという“効果”があります。校歌祭を機に出会った仲間とは、在籍した3年をはるかに超える10年の付き合いになるのだから当然かもしれません。

 第5回を機に委員会組織としましたが、実行委員会は例年校歌祭当日から逆算して半年以上前に活動を開始します。「今年はどんな演出にしようか」「若い世代にもっと参加してもらおう」などと計画を練り、実行します。

 翠嵐会の校歌祭参加の本当の目的は「会員の交流活性化」です。校歌祭は翠嵐会の活性化に大きな力となり、事業が活性化しました。

 横浜翠嵐高校は昨年創立100周年を迎え、11月4日に県民ホールで「記念式典・記念演奏会」、夜は会場を移して「記念祝賀会」を開催しました。担当した「式典小委員会」のメンバーは「校歌祭実行委員」が中心でした。

 また、「翠嵐会音楽会」は室内楽でスタートしましたが先輩後輩の交流のおかげで、今では400人のホールコンサートを開けるようになりました。

 若い卒業生が中心の「横浜翠嵐OBOG吹奏楽団」は、それまでも定期演奏会を開催していたのですが、校歌祭に参加するようになってから観客数が飛躍的に増え、今年は県立音楽堂に“出世”しました。

 このように「青春かながわ校歌祭」への参加は様々な“波及効果”をもたらします。今後も翠嵐会の活性化、発展のために参加させていただこうと思います。

音楽委員会 校歌祭実行委員会 委員長


次の100年、世界の翠嵐へ

2014/7/2

 平成26年7月発行の翠嵐会報 第28号は翠嵐高校の渡辺英司校長に巻頭言をご寄稿頂きました。ご紹介いたします。

渡辺英司 校長

渡辺英司 校長

 私は、平成23年に赴任し、今年で3年目となります。伝統ある横浜翠嵐高等学校の100周年目の校長として、OBである翠嵐会の皆様をはじめ、保護者の方、地域の方々に誇れる学校となるよう100周年目にあたる平成26年度を新たなスタートとなる年としていく所存です。

 横浜翠嵐高校は、ここ10年で大きく変わったといわれています。全日制では学力向上進学重点校として、大学進学に重点をおいた指導を行っていますが、特別活動、伝統ある行事や部活動などにも一生懸命取り組んでいます。けじめある生活習慣の取り組みにより部員数が増加した部活動もあります。

 また、ここ数年の進学実績の伸びは、神奈川県だけでなく全国からも注目を浴びています。学校が変わっていくことはなかなか難しいことであり、学校を良い方向に変えようとした校長や職員の努力は大変なものだったと思います。基礎を作った先生方をはじめ、ご理解いただいたOBの皆様にも改めて御礼申し上げます。

 しかし、本校が目指しているのは進学実績だけではありません。もちろん、進学実績を上げることは本校を目指す中学生や将来本校を創る子ども達にとって大切なことですが、それ以上に重要なのは、豊かな教養と品格を備えた人材育成を目指す人間教育、そして国際社会で活躍しリーダーシップの取れる人材の育成と考えます。

 横浜翠嵐の思いは、日本、いや世界を良くする人材の育成であります。この思いは、初代校長瀧澤又市先生が唱えた「平凡主義(のちの大平凡主義)」として、百年もの長い間、伝えられています。その伝統こそがさらなる発展へとつながる礎であることは言うまでもありません。

 今の世の中は、今をどうよくするかという思いが強いのではないかと感じられます。今だけでなく継続的に将来を良くするためには、よき伝統は継続し、改革すべきところは改革する、その歩みはたとえ遅くても、じっくりと構えることも必要となるのではないでしょうか。どんなに素晴らしい取り組みであっても、そのときだけで終わってしまう単発的な取り組みでは、良い取り組みとはいえないでしょう。

 私は、横浜翠嵐を卒業する子供たちが、将来を支える基礎を本校で学び得たことで、本校に在学していたことを良かったと思い、将来社会に出て、社会を担う一員たり得たときに、母校を素晴らしい学校と誇れる取り組みを行っていきたいと思います。在校する期間は全日制で3年間、定時制で4年間と短いですが、それが将来に続くよう指導してまいります。

 今後、世界はどのように変化するか、今の我々の想像を遥かに超えた将来が訪れるかもしれません。しかし、この100周年を一つの契機として、なにごとに対しても果敢に挑戦し、決してあきらめない精神をもち、グローバル社会を牽引し、豊かな教養と品格を備え、他人の痛みがわかる感性をもつ人材の育成、いわば本校の原点を見据えながら、また時代に即応する教育を行ってまいる所存です。

 横浜翠嵐のさらなる発展を祈念して擱筆といたします。

翠嵐会報 第28号は特別体制として創立100周年に関する記事を抜粋して
pdfファイルにてご提供しています。

翠嵐会報創立100周年に関する記事は → こちらよりダウンロードしてください。


ハーモニカバンド終焉

2011/12/26

中学21回卒 川口恒幸

川口恒幸氏(中21回)

中学21回卒業の川口恒幸氏から、ハーモニカバンドの終焉についてのお話をして頂きました。

 各地でハーモニカサークルが花盛りである。メンバーは女性の方がはるかに多い。
昔はハーモニカは男性の楽器だった。うたた今昔の感にたえない。

 私が中学生になったとき、学校は創立二十周年だった。一週間ばかり授業を半日にして、各種の行事の準備が行われた。生徒の作品の展示、体育大会、ジオラマ、剣道野外紅白戦、そして圧巻は会場を校外への持ち出しての音楽会だった。 独唱、合唱、ピアノ、弦楽器、それにハーモニカバンドの演奏である。 十五、六名ぐらいであるが、第一、第二ハーモニカ、バリトン、コントラバス、ダブルバス、打楽器と当時としてはなかなか凝った編成であった。これを聞いて私はすっかり魅せられた。 フェストが終わって早速入部させてもらった。第二ハーモニカを担当させられた。 年に一回校内の発表会があるが、先輩の学校の同窓会に招かれることもあった。

〜平成23年12月発行の翠嵐会報より〜



»全文はこちらからご覧下さい。


尺八演奏家の三橋貴風氏「秋の紫綬褒章」を受章

2011/12/26

三橋貴風氏(高20回)

三橋貴風氏(高20回)

尺八演奏家、三橋貴風(保源)氏(高20回)が平成23年(2011年)「秋の紫綬褒章」を受章しました。

第5回翠嵐会音楽会で演奏した高20回卒の尺八演奏家、三橋貴風氏が学術や芸術文化、スポーツなどの分野で活躍した人に贈られる、平成23年秋の紫綬褒章を受章しました。

三橋氏は2009年度に芸術選奨文部科学大臣賞、文化庁芸術祭賞大賞も受賞していますが、尺八という日本の伝統文化を内外に拡げる活動のみでなく、オーケストラとのコラボや東洋音楽・シンセサイザーなどとのユニット結成など、新しい音楽の創造にも取り組んでいます。

このような活動が評価され、2010年度横浜文化賞も受賞しました。
まさに三橋氏のこれらの活動が高い評価を得たわけです。

心から祝うと共に、翠嵐会としても今後の益々の活躍を期待します。

関連記事はこちらをご参照ください。
三橋貴風氏については「活躍するOB・OG」をご覧ください。


「いのちの声を聞く」〜水野丈夫氏(中27回)特別講演〜

水野丈夫氏

水野丈夫氏(中27回)

2011年5月21日に開催された翠嵐会総会におきまして、水野丈夫氏(中27回)東京大学名誉教授にご講演頂きました。
その内容を詳しく山本陽史氏(高29回)が記録・水野丈夫氏がご執筆された「いのちの声を聞く」をご紹介いたします。

水野丈夫氏 略歴
昭和2年長野県に生まれる。横浜二中、海軍兵学校、旧制一高を経て昭和25年東大理学部卒。
理学博士。専攻は実験発生学。東京大学理学部教授、帝京大学薬学部教授、東大理学部付属臨海実験所長、フランス国立高等研究院実験発生学研究所副所長(パリ)、英国ストレンジウエイズ研究所客員研究員(ケンブリッジ)などを経て、現在、東京大学名誉教授、日仏生物学会名誉会員。

»こちらからご覧下さい。

深谷賢治氏(高29回)朝日賞受賞

深谷賢治氏 ご自宅にて

深谷賢治氏 ご自宅にて

高校29回卒業の深谷賢治さん(京都大大学院理学研究科教授)が平成21年度朝日賞を受賞されました。
朝日賞は朝日新聞創刊50周年記念事業として1929年(昭和4年)に創設され、学術、芸術などの分野で傑出した業績をあげた個人または団体に贈られる賞です。
受賞者のなかには後年になって、ノーベル賞や文化勲章を受けた人もでるほど大変権威のある賞です。
深谷さんは「シンプレクティック幾何の研究」に対して業績が認められ受賞となりました。
写真は深谷さんご自宅にて正賞のブロンズ像と一緒に撮影されたものです。

深谷さんは名古屋生まれの横浜育ち。斎藤分小学校、六角橋中学校を経て翠嵐高校に入学されました。 中学の頃から数学が好きで、当時は数学クラブのようなものはなかったので、一人でひたすら数学の本を読んでいたそうです。 翠嵐高校では天文同好会に入って、よく星を見に行っていたそうです。 天文学者になることに憧れながらも、高校3年時には数学の道に進むことを決めたそうです。

  • 東京大理学部数学科に進み1981年同学科卒、1983年同大大学院理学系研究科修士課程修了。
  • 1983年同大助手、1987年同大助教授。1994年から京都大教授。
  • 2003年日本学士院賞、2009年12月から日本学士院会員。
  • 著書に「数学者の視点」「これからの幾何学」「シンプレクティック幾何学」等があります。

深谷さんは、
「自分は勉強熱心ではなく、高校時代は勝手に好きなことをやっていた。翠嵐ってそういう校風だった。」
「東京大学も京都大学もそうした雰囲気があって、その環境で発見が生まれる。」
「数学者は誰からも影響を受けず、特許や応用などの具体的な目標を定めたり、与えらたりすることはなく、意味深いことをやり続けることだ。」
「真面目に努力していれば良いというものではなく、前と同じことをやっていても駄目。ずっと数学に興味を持ち、好きで居続けること。そこから発見が生まれる。」
と話されました。

平成22年9月12日 翠嵐高校教室にて

平成22年9月12日
翠嵐高校教室にて

今や技術の世界では当たり前になったコンピュータシミュレーションなど一切使わず、文献を読み、自らの頭脳とノートとペンだけで新しい発見とその証明を行い、論文として書き上げるのが深谷さんの仕事です。

「ある意味で数学者は芸術家のようですね」と問いかけると、
深谷さんは
「確かに気質はそうかも知れない。頭が柔らかくないとできなし、人と同じことをやっていたら駄目。ただ、芸術家と違うところは世間受けはしないですけどね。」
人生観については、
「お金を使い、楽をしてでは面白いことは続かない。自分のエネルギーと時間を裂いて、必死になって探すことで本当に面白いことが見つかる。」
と話されました。

最後に深谷さんは翠嵐高校に色紙を残して下さいました。
「まわりと違うことを考えて、違うことをして下さい」

深谷さんは正に数学会の牽引者です。 好きなことを極めた方のパワーを感じました。

人類の英知の為に益々ご活躍されることを期待しています。

(高29回 江成正彦)


三橋貴風(本名:三橋保源)さん(高20回卒)が、「第64回文化庁芸術祭賞」で大賞を受賞

三橋貴風さん

平成21年度「第64回文化庁芸術祭賞」の受賞者が12月18日に発表されました。
三橋さんは古典と現代の楽曲を取り入れた尺八の演奏会で高い技術を披露し、見事に大賞(音楽部門)を受賞されました。

(写真左は川端文部科学大臣、右は令夫人)

〜 受賞対象 〜

三橋貴風 尺八本曲 空間曼陀羅 恨(ハン)の軌跡の成果


〜 受賞理由 〜

 プログラム前半では、本曲から3つの異なった「三谷」を選ぶという知的なアプローチによって古典を現代に蘇らせ、後半では湯浅譲二、広瀬量平といった日本を代表する現代作曲家の作品に加えて、韓国の金大成による委嘱新作を置くことで、尺八音楽の空間的な拡がりが示された。かくして時空を超えた音楽のありようが傑出した技術で展開された、すぐれた演奏会となった。
(文化庁発表資料より)

三橋貴風さん

平成22年1月29日
授賞式にて


北極・永久凍土に「ノアの方舟」〜田邊光彰氏(高9)の作品〜

田邊光彰氏

全地球種子庫内での
一周年記念式典
撮影:伊藤 修氏

田邊光彰氏(高9)の作品と言えば、翠嵐高校正門にあるモニュメント「MOMI(野生稲の発芽-2)」、米国メリーランド州立エレアノ・ルーズウエルト高校にある モニュメント「MOMI-1999」が一番身近な存在です。
「MOMI(野生稲の発芽-2)」は翠嵐高校創立80周年を記念して翠嵐会が同氏に制作を委託し寄贈されたもので、「MOMI-1999」は同校と姉妹校締結10周年を記念して、翠嵐会より平成11年に寄贈されたものです。
詳しくは翠嵐の歴史をご覧下さい。


田邊氏は20年以上に及ぶ思索と行動を通して、野生稲の自生地保全のコンセプトに基づく彫刻を今も世界各地に造り出しています。

その活動を通じて平成21年2月26日に、同氏の彫刻「THE SEED 2009 MOMI-IN SITU CONSERVATION」(長さ1.2m ステンレス鋳造)が北極・ノルウェー領スバールバル諸島スピッツベルゲン島の全地球種子庫の最深部にあるVIP Historical Roomに設置されました。

このスバールバル全地球種子庫は北極圏・永久凍土海抜130m地点の120mの横穴最深部に、地球温暖化や戦争などによる絶滅に備える為に、国際連合が決定した全世界の300万種の種子を永久保存する施設で、正しく植物版の「ノアの方舟」です。
万一絶滅が起こっても、種の復活が出来るようにとの地球規模の壮大な計画です。
ここに唯一、芸術作品として同氏の彫刻が飾られ、この報道は全世界に配信されました。

日本の翠嵐高校、米国のルーズウエルト高校そして、ノルウェー・北極圏の全地球種子庫とが、田邊氏の作品によって繋がっていることは翠嵐にとっても光栄で大変素晴らしいことです。

このたびの同窓生の偉大なる功績に敬意を表し、大きな拍手を贈りたいと思います。
今後の更なるご活躍をお祈りいたします。


瀧澤校長に想う

瀧澤又市初代校長
瀧澤又市初代校長
(1925年頃)

瀧澤校長に想う

高校17回卒 内田友昭

今手元に表題「美なりや翠嵐」なる小冊子がある。平成九年に初版が発行された、わずか十六ページのA五版印刷物である。編集委員のあとがきには第十八代松井薫子校長先生のお勧めにより、「大平凡主義」及び本校の歴史を在校生の皆さんに理解してもらうため、とある。翠嵐会の役員でもない私の手元にどうしてこの小冊子を届けて頂いたかは全く記憶にない。

在学中も折にふれ耳にした「大平凡主義」をもう少し詳しく知りたいとの願望が卒業してから大分経ってから湧いてきたが調べるチャンスも無く、時は経過した。二十六年ぶりに横浜に帰り、平成十七年以来懐かしい翠嵐会の年次総会に出席し、一〇〇周年資料収集委員会の作業をお手伝いすることになり、この願望が再燃した。
この冊子の中には瀧澤校長が福井県立武生中学校から赴任されたことが記してあった。ここから私の調査が始まることになる。・・・

以下続きは、こちらをお読み下さい。

美なりや翠嵐

「美なりや翠嵐」

「美なりや翠嵐」
平成9年3月1日初版
翠嵐会発行

〜創立と初代校長〜

 翠嵐高校の前身の県立第二横浜中学校(通称横浜二中、二中)は大正3年(1914年)に開校しました。(第二次世界大戦前の旧制中学 は5年制で現在の中学1年生から高校2年生にあたる生徒が学んでいました。)それまで県内には4つの県立中学校がありましたが、 横浜には第一中学校(現希望が丘高校)があるだけでした。当時横浜の人口は50万人を数え、2番目の中学校が切望される中で横浜二中は 大きな期待を担って開校しました。
 初代校長は瀧澤又市先生です。新潟・東京の中学校の先生、福井県立武生中学校の校長をされてから横浜二中に約18年間在職されま した。温和な先生は横浜二中とその生徒を大変愛し、生徒から尊敬され慕われました。その中で先生は「平凡主義」といったことを 生徒に話されました。これが時代とともに「大平凡主義」という言葉になって現在に伝えられています。
 ここでは翠嵐高校の校風というと必ずいわれるこの「大平凡主義」について紹介致します。

翠嵐の歴史についてはこちら

〜大平凡主義について〜

 昔から、翠嵐高校の校風を表す言葉として「大平凡主義」という言葉が使われてきました。今となってはこの「大平凡主義」の実体 ははっきりしませんが、80年を越える翠嵐高校の歴史と、現在まで受け継がれてきた翠嵐高校の自由な校風を表すには欠かせない言葉 です。
 「大平凡主義」は翠嵐高校の前身である横浜二中の初代校長瀧澤又市先生が唱えられた「平凡主義」に始まる言葉です。瀧澤校長 先生は二中が創立された大正3年(1914年)から昭和6年(1931年)9月まで約18年間、二中の校長を務められました。創立からこれだけ長く 一つの学校で校長をされた瀧澤校長先生が与えた影響は非常に大きいと考えられます。
 当時は「修身」と呼ばれる授業があり、瀧澤校長先生が直接授業をされていました。この授業の中で瀧澤校長先生は「人をかき分けて 生きてゆくようなことをしてはならない。平凡主義で世の中を渡っていきなさい。」とお話になりました。集団生活の中での協調性を重視 する先生の考え方は、当時先生が野球を禁止しサッカーを正規の授業として取り入れたことにも表れています。一人の人間が抜きんでる よりも大勢の人が協力していくことが大切であるという考えで、個人プレーが目立つ野球よりもサッカーを勧められたのです。このおかげで、 二中は神奈川県ひいては日本におけるサッカー界の草分け的存在になりましがた、野球が人気だった当事のこと、瀧澤校長先生が転任された 翌年には野球部ができました。野球はやりたくてもやらせてもらえなかったというのが実情のようですが、それだけ瀧澤校長先生は、ひとつの 信念を通されたのでしょう。
 この「平凡主義」は生徒に自信を与える源にもなりました。当時の校名が示すとおり、横浜に最初にできた旧制中学校は第一横浜中学校 (通称、神中、現希望が丘高校)ですが、神中と比較し、競うことなく行動するということを瀧澤校長先生は「平凡主義」と通して 教えられたのです。
 瀧澤校長先生が唱えられた「平凡主義」がやがてまわりの先生や卒業生などによって「大」をつけて「大平凡主義」と言われるよう になり、伝えられてきたようです。「平凡主義」が時を経て「大平凡主義」といわれるようになるとともに、この言葉は受け取る人や時代 によってさまざまな解釈がされるようになりました。ここでは「一日一日を大切にすること」、という解釈をあげておきましょう。 大平凡とは、平凡なことを大切にする、平凡であることの価値を認めて大切にする、つまり言い換えれば、当たり前のことを大事にし、 一日一日を大切にすることなのです。私たちは、日々を何気なく、当たり前だと思っていることにも実はさまざまな人の努力や土台がある のに、それに気づかずに過ごしてしまってはいないでしょうか。
大平凡はこのようなメッセージと考えることもできるのではないでしょうか。
 また、二中の創立の頃、社会は大正デモクラシーの考え方が広がり始めた時代です。民主主義には大勢が話し合いで進めていくという 原則があります。そのためには、個人の意見が異なるのは当然なので、いきなりベストを求めるのではなく、ベターを求めることが必要と なってくる、そんな考え方が大平凡主義にも通じるのではないでしょうか。
そしてこれは、生徒一人一人の意見を尊重するという翠嵐高校の自由な校風にも通じるものがあります。
 つまりここで言う「自由」とは、自分とその他大勢との調和の中において生まれるものなのです。自分だけがベストばかりを主張し ても「自分勝手、わがまま」と思われるだけです。それは決して「自由」とは言えないということを私たちはもう一度考える必要がある でしょう。
 先に述べたように、「大平凡主義」をどうとらえるか人それぞれです。
しかし、私たちが一日一日を大切にし、自主性と協調性を持って行動できたとき、「大平凡主義」に象徴される翠嵐高校独自の 「自由な校風」を初めて語ることができるのではないでしょうか。

開校当時の正門写真

〜校名の変遷と由来〜

 本校は、大正3年(1914年)「神奈川県立第二横浜中学校」として誕生し、大正12年(1923年)に「県立横浜第二中学校」となりました。
 戦後の学制改革で昭和23年(1948年)には「県立横浜第二高等学校」となりましたが、この名称はわずか2年で姿を消します。新制 小、中学校はすでに男女共学であり、これを受け入れる高校でも共学が始まりました。そこで「女子」や「第一」「第二」といった順序 をなくすのに伴い、新校名を考えることになったのです。
 生徒の希望を調査した結果では約六割が「神奈川高校」、三割弱が、「翠嵐高校」を望みました。PTA(現翠和会)と翠嵐会(同窓会: 大正8年発足、初代会長は瀧澤校長先生)との合同協議会は、第一案に「神奈川高校」、第二案に「横浜翠嵐高校」と決定しましたが、 県教育委員会臨時会では、近くに神奈川学園があるため紛らわしいとして第二案を採用し、現在の校名「神奈川県立横浜翠嵐高等学校」 が生まれたのです。
 「翠嵐」という言葉は校歌の冒頭に「美なりや翠嵐 煙波の港」として出てきます。「翠嵐」の意味は薄青色の山の気、樹木の青々と したさまといったものですが、当時人家がほとんどない学校のまわりの緑の木々の情景を表していました。校歌の「翠嵐」という言葉が 同窓会の名前に使われ、さらに校名にまでなったということです。
「翠嵐」は旧制中学の卒業生から現在の生徒まで愛着のある言葉なのです。

〜校章の由来〜

 現在の校章は、桜の花と旭に光を組み合わせた真ん中に高校を表す「高」の文字が入ったものです。旧制中学の校章は現在の「高」 のところに「中」の文字が入っていました。実はこの図案は、都立両国高校の校章と同じで違いは中の文字だけです。
 初代瀧澤校長先生は以前勤められていた東京府立三中(現両国高校)の校風が気に入られたそうで、二中の校章に東京府立三中と 同じものが採用されました。

(左)旧制中学の校章、(中央)現校章、(右)両国高校校章

「美なりや翠嵐」平成9年3月1日初版 翠嵐会発行 冊子より抜粋(現在は発行されておりません)
※瀧澤又市先生の「滝」の字は「瀧」と、「沢」の字は「澤」と表記されることもあるようです。

「翠嵐の丘を巣立った海の防人」贈呈式が行われました。

2008/5/24

「翠嵐の丘を巣立った海の防人」報告書

平成20年5月24日(土曜日)、母校にて横浜第二中学校第27回生水野丈夫氏らにより「横浜第二中学校から海軍兵学校に進学し、海軍の活動とともに祖国の礎になった有為の学生が生きた証」としてまとめた調査報告書「翠嵐の丘を巣立った海の防人」が翠嵐会に贈られました。



翠嵐高校の写真(2009年12月12日撮影)全48枚

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